(この記事は、2021年1月4日に配信しました第313号のメールマガジンに掲載されたものです)

今回は、お子様のピアノ発表会のお話です。

毎年6、7月に開催していたお子様の発表会が、新型コロナウイルスの影響で延期となり、2020年最後のレッスンが終わった後の12月末に、やっと開催できました。

一時期は、延期ではなく中止もやむを得ない状況でしたが、感染対策を徹底し、生徒さんやご家族にもご協力を頂いて、どうにか開催し無事に終えることができました。本当に、ほっとしています。

かなり異例の事だらけで、戸惑う事も多々ありました。

まず、コロナの状況によっては、再度の延期や中止もあり得るため、プログラムを事前に作ることができず、発表会会場の地図をメールに添付して生徒さんに送ったり、お友達や祖父母の方の招待もご遠慮いただきました。

通常、1回のステージで20~30名が出演しますが、今回は最大10名までとし、集合時間も設けず、自分の出演に間に合うように来ていただき、記念品も1種類のみにして、開場に着いた時点でお渡ししました。演奏後の集合写真や講師演奏も無しで、生徒さんは、演奏が終わったら即解散という、だいぶ味気ない感じではありますが、密を避けるための運営となりました。

それでも、生徒さんは、これまでと変わらず熱心に発表会に向けた練習をされてきましたし、ご家族の皆様も楽しみにされていたと思います。

当日は、開演10分前くらいから、ぽろぽろと生徒さんが到着され、初めて発表会に参加される生徒さんには、開演前に、舞台に上がるタイミングやお辞儀の位置などを確認してもらいました。

その際、初めて参加される生徒さんのご家族と、今回2回目のご家族が対面して、驚いている場面に遭遇しました。ご近所さんとのことで、「いつから習っているの? 何曜日にレッスンに行っているの?」と話が弾んでいました。曜日が異なるので、ピアノ教室で会ったことがなく、発表会で突然会ってビックリしたようです。私も、「世の中、狭いものですね」と話していました。

発表会は、今回も他の先生との合同開催です。初めて組む先生でしたが、コロナの影響もあって、事前にお目にかかることもなく、メールで打ち合わせをしてきました。出演される生徒さんの名前やふりがな、演奏曲目、足台や補助ペダルの有無および高さの指定、当日のタイムスケジュール、役割分担などです。お互い、もう何年もピアノ講師をしているので、メールでもテキパキと進み、特に問題はありませんでした。

当日は、定刻通りに発表会が始まり、幼稚園生の生徒さんの演奏からスタートです。

この生徒さんは、前回(2019年夏)の発表会に、お客様としてお姉様の応援に来ていましたが、今回はいよいよご自身が出演者になります。

やや緊張した面持ちで登場され、お辞儀の時間が長かったので、少々心配しましたが、いつも通りに弾き始めていました。途中で、これまで一度も間違えたことのない場所でミスをしてしまい、何回かその個所を弾き直していましたが、その後は順調に弾いていて、2曲目では最後の部分で両手とも1オクターブ以上音が飛ぶ箇所があり、一番の難関なのですが、慎重に鍵盤を見て音を確認し、しっかりと弾くことができました。終わってみれば、上出来です。

もう1名、初めて参加される生徒さんも、上手にできました。この生徒さんが弾いた曲は、左手の伴奏が常に同じリズムを刻んでいる音楽です。このようなタイプの音楽は、練習して弾けるようになってくると、楽しくなってしまうのか音楽に乗りすぎてしまい、どんどん早くなってしまう事がよく起こります。この生徒さんも、かなり早い段階で弾けるようになったのですが、やはりテンポの制御が難しく課題となっていました。しかし、本番が近づくにつれてテンポが安定し、本番でもとても良いテンポで弾く事が出来ていました。

次は、今回が発表会2回目の生徒さんです。前回(2019年夏)は二人のお姉さん方と3人6手で弾きましたが、今回は一人で2曲にチャレンジします。だいぶ前からお気に入りの曲があり、それにもう1曲追加しました。

レッスンでは、とても楽しそうに弾いていましたが、発表会本番でも、いつもと変わらない表情で弾き始め、「落ち着いているなぁ」と思ったのですが、曲の後半に、音階の最初の音を間違えてしまい、音階が全部ずれてしまいました。「あ~っ」と心配しましたが、次の小節ではしっかり立て直して、どんどん続きを弾く事ができました。大得意の2曲目は、抜群の安定感でとても上手に弾けていました。

最初に登場した生徒さんのお姉様は、今年大変有名な曲を選びました。開演前に、「暗譜は出来ているんだけれど、安心して弾けるように楽譜を見たい」と話しますので、「暗譜できているから大丈夫じゃない?」と話したのですが、いつもと違って神妙な面持ちだったため、これ以上不安な思いをさせるのは良くないと思い、「良いわよ。そうしましょう」と返事をして、楽譜を見て弾く事になりました。

本番では、最初のフレーズからきちんと表情をつけて弾けていて、ペダルもきれいに使えていました。速いパッセージも頑張って弾けていましたし、かなり健闘したと思います。

最後に演奏した中学生の生徒さんは、小さい頃から何回も発表会に出ていて、本番を何回も経験していますので、さすがに落ち着いた表情で堂々と演奏していました。弾くときに、鍵盤の手前ぎりぎりの場所で弾いてしまったため、鍵盤から指がずり落ちてしまうというハプニングがありましたが、それ以外は上手にまとめていたと思います。

スムーズな進行ができ、あっという間に発表会が終わりました。即解散という事でしたが、一言ご挨拶をしに生徒さんのところへ行き、健闘を称えることができました。

年末差し迫った時期の開催は、何かと慌ただしく生徒さんもご家族も大変だったかと思いますが、1年の良い締めくくりとなったと思います。

今年2021年の発表会では、これまで通りに笑顔で集合写真を撮りたいものです。

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謹賀新年 2021


2021年1月4日

明けまして、おめでとうございます。今年も、よろしくお願いします。

昨年は、コロナの世界的大流行で、大変な影響を受けましたが、ベートーヴェンのメモリアルイヤーでした。

今年2021年は、ジョスカン・デ・プレが没後500年、サン・サーンスが没後100年、ストラビンスキーが没後50年、アストル・ピアソラが生誕100年になります。

ジョスカン・デ・プレは、バッハよりも古い時代のルネサンス期を代表する音楽家で、多くの宗教的な音楽を作曲しました。クラシック音楽の歴史には、必ずと言ってよいほど名前が挙がる大家です。

サン・サーンスは、フランスの作曲家で、オルガニストとしても活躍しました。代表作は、組曲「動物の謝肉祭」の中の「白鳥」が有名です。2歳でピアノを弾き、3歳で作曲をして、10歳で演奏会を開き、13歳でパリ音楽院に入学、16歳で交響曲を作曲するなど、モーツァルトと並ぶと言われるほどの神童だったそうです。フォーレなども育て、当時パリのオルガニスト最高峰であるマドレーヌ教会のオルガニストも務めました。

サン・サーンスについては、コン・ヴィヴァーチェの以下のページもご参照ください。

ピアノのしらべ:サン=サーンス作曲「白鳥」
ピアノ・コンシェルジェ:サンサーンスの白鳥、きれいに聞こえる楽譜は?

ストラビンスキーは、ロシアを代表する作曲家で、20世紀を代表する音楽家でもあります。「火の鳥」「ペトルーシュカ」「春の祭典」が代表作です。

アストル・ピアソラは、アルゼンチンの作曲家で、「リベルタンゴ」が大変有名です。タンゴとクラシックやジャズを融合させ、独特の世界観を持つ音楽作りをしてきました。

今年は、非常に古い時代から近代の新しい音楽家まで、幅広い世代の音楽家がメモリアルイヤーになっています。より深めるもよし、新しい音楽に出会うもよし、様々な楽しみ方ができそうですね。

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(この記事は、2020年12月21日に配信しました第312号のメールマガジンに掲載されたものです)

今回の「たのしい音楽小話」は、前回の続きで、ベートーヴェンの難聴と作品作りについてのお話です。前回の記事は、以下で読むことができます。

ベートーヴェンの難聴と作品作り (1)

ベートーヴェンは、難聴のあらゆる治療法を試しますが、良くなるどころか日に日に悪化していき、遂に自殺を考えるまで追い詰められます。

「僕は絶望し、自殺することすら考えた。しかし、芸術への思いがそれを引き止めた。僕は、自分に課せられている使命を果たすまで、この世を去ることはできない」と、弟に手紙を書いています。

当時、「自由・平等・博愛」を掲げたフランス革命を指揮していたナポレオンの姿から刺激を受け、尊敬もしていたそうです。ナポレオンに捧げるため、「交響曲第3番英雄」を書き、彼の代表作の一つになりました。その後、「傑作の森」と言われる奇跡の10年を迎えます。

絶望から這い上がって、傑作を生み出していくという不屈の精神が、ベートーヴェンの凄いところですね。

ピアニストの清塚さんも、「音楽家として、難聴は命を取られた事に近い。ベートーヴェンは、難聴になるまで、むしろピアニストとしての方が売れていた。それが難聴でピアニストは無理となり、作曲家として生きていくという別の道を見つけたことで大作を生み出している」と話していました。

次は、ベートーヴェンとその前の時代に活躍したモーツァルトの音楽の比較です。

「モーツァルトは、貴族のパーティ─や食事に合うような、軽い感じの音楽を作曲していて…」と、清塚さんがモーツァルトのトルコ行進曲を演奏し、ゲストの方も、「軽い音楽ですよね」「聴きながらお食事できますよね」と話していました。次に、清塚さんがベートーヴェンのピアノソナタ「悲愴」の冒頭部分を弾き出した途端、ゲストの方々が苦笑して、「食欲がわかないですよね」「暗いですよね」と口々に話していました。

「ベートーヴェンは、食事に合うような音楽を書く気はさらさらなくて、広い劇場で多くの人々に自分のストレスや不安、苦悩などを込めた音楽を聴いてほしいと思っていたので、モーツァルトとは音楽作りのコンセプトが全然違うんですよね」と話していました。

ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」も取り上げていて、第1楽章の冒頭部分を弾きながら、「タタタタという一つの小さなパーツであるリズムだけで、ほぼ作られている曲で、このリズム独特の切迫感が必ず音楽の中のどこかに鳴っている状態の音楽です。このような手法はベートーヴェンが編み出したもので、ベートーヴェン以降、この手法を用いて(1つのパーツで)お城のような音楽を作った作曲家は現れていない」と話しますと、「怖いおじさんというイメージから、魅力的な人に見えてきましたよね」「革命児ですよね」と、ゲストの驚きの声が上がっていました。

交響曲第6番「田園」やベートーヴェン自身が最高の出来と評したピアノソナタ第23番「熱情」など、傑作を次々と生み出した時に使用していた補聴器なども紹介されていました。ヘッドセット型から、大きいものは、マグカップよりもはるかに大きなラッパが付いたサイズのものまでありました。難聴の初期のものは小さく、難聴が酷くなるにつれてラッパ部分のサイズは大きくなっていきました。大きなサイズのものは、手に持って仲間の声を聴くには重いので、ピアノの上に置いて使用していたそうです。

ベートーヴェンが難聴になって引きこもっていたハイリゲンシュタットの家は、現在「ベートーヴェン ミュージアム」になっていますが、そこにはベートーヴェンが使用していたボックス付きのピアノがあります。茶色いグランドピアノで、蓋が閉められピアノの弦は全く見えませんが、譜面台がある場所の一部が切り取られていて、そこにボックスが付けられています。作曲や演奏をする時は、このボックスに頭を入れて音を聴いていたのだそうです。難聴を受け入れてからのベートーヴェンは、このような涙ぐましい努力をしていました。

ベートーヴェンが40代半ばになると、音はほとんど聞こえなくなってしまいます。会話も困難となり、コミュニケーション手段として筆談をしていました。その筆談帳が、400冊以上もありました。話すことはできたので、相手の質問のみ書かれています。家政婦に頼んだ買い物の金額など、買った品物や価格などが事細かに書かれていました。

ベートーヴェンの曲を分析をすると、難聴の進行に合わせて、高音部の使用頻度が減ってきて、聴き取りやすい低音と中音を使うようになっていきます。

耳が聞こえなくても絶対音感があれば、作曲は可能ですが、ベートーヴェンは当時としては珍しく、楽譜に細かく具体的な演奏の指示を書き込み、意図する曲のイメージを演奏者に正確に伝えていました。そして、本当に楽譜通りに演奏されているか自分で確かめていたのです。音楽は自分の感情を表現するもので、確実に人々に届けたいと思っていたのでしょう。

50歳で黄疸になり、3ヵ月も寝込んでしまいます。毎日ワインを1本は飲んでいたそうで、それが原因でアルコール性肝硬変になってしまったと考えられます。音楽家として致命的な難聴に苦しみながら作曲活動をしていたわけですから、飲まずにはいられない心境だったのでしょう。

黄疸は、当時の医学では治せない病気で、死刑宣告を受けたようなものですが、その頃、王侯貴族が復権しつつあり、自由と平等を求める市民が、また各地で弾圧にさらされていました。

自分に残された時間はそんなになく、自分が思っていた「世の中は、こうあってほしい。世界は、こうあるべきだ」というメッセージを、最後に形にして、音楽を市民の元に取り戻すとばかりに、交響曲第9番の作曲に着手します。ドイツの詩人シラーが書いた「歓喜に寄せて」の一節「時の流れが厳しく分かつものを、喜びの神秘的な力が再び結ぶ」を使用しています。

このドイツ語の「喜び」という意味の「フライデ」のよく似た綴りで「フライハイト」という言葉があり、自由という意味なのだそうです。シラーは、もともと「フライハイト」(自由)という言葉を使用したかったそうですが、当時の政府の検閲を恐れて「喜び」という言葉に替えたのだそうです。そのため、このシラーの一説は、自由の力が身分や階級の差をなくすという意味になり、ベートーヴェンが第九に込めた思いとなります。

この思いを人々に届けるため、交響曲に合唱を取り入れるという大変画期的な作品となりました。人類の理想を、音だけでなく具体的な言葉を伴うものにしたのです。

しかし、この合唱の練習が始まると、歌手たちは不満を爆発させ、「あなたの作る歌は、発声器官への拷問だ」と言い始めます。第九を聴いてお分かりかもしれませんが、ソプラノの高音がものすごく高く、悲鳴に近いもので、しかもずっと長く伸ばさなければなりません。真ん中のドからドレミ…と数えてラがありますが、その1オクターブ高いラを、8小節くらい伸ばすのですから、不満が出るのは当たり前ですね。

この部分の歌詞は「全世界に」という部分にあたり、自由の力が身分や階級の差をなくし、全世界に広がってほしいというメッセージを伝えるため、人間の肉体の限界に挑戦している部分でもあり、また難聴だからこそ理想通りに書くことができた音とも言えます。

耳が完全に聴こえなくなり、心に耳を傾けて高音の使用が復活しますが、それがベートーヴェンの音楽を豊かにし、不朽の名作を生み出していったのです。

ゲストの方々は、「年末になると、なんで第九ばっかりやっているのかと疑問に思っていたけど、今日初めて意味が分かった」「中学生の時に第九を歌ったことがあり、貧血を起こしていた人が何人もいて、なんて体力のいる歌なんだろうと思っていた」と話していました。

ピアニストの清塚さんも、「第九は、好きとか嫌いとかを言ってはいけない曲で、音楽家というより人類の到達点の一つとも言える」と話していて、ゲストの方も共感されていました。

第九の聴きどころについて、有名な歌の部分はサビが出てくるまでに、約1時間かかるという話をされていて、ゲストの方々は、「え~、そうなんだ。じゃあ我々はサビから聴いているわけですね。じゃあ、第九の最初の方を聴いたら第九だってわからないわけですね」「サビから始まるものだと思っていた」と口々に話していました。

清塚さんが演奏を交えながら、「有名な歌のメロディーも、ちょっと出てきては消えて、高さが変わって出てきてと、ずっとお預けを食らっていて、じらされた上に、フレーズの最初の方で終わってしまったリして、来る?来ない?という状態があり、その後暗くなって、いよいよ来るぞ来るぞという状態になって、最後のフリの後に間髪入れずに有名な歌の部分が出てきて鳥肌が立つので、1時間の前振りに耐えた後の、このオチは最高」と話していました。

そして、「音楽家にとって、ベートーヴェンは尊敬を超えてある種コンプレックスを感じるもので、ずっとベートーヴェンが付きまとっていて、何かを生み出しても、ベートーヴェンがあの作品でやっているよねと、何をやってもベートーヴェンにやられてしまう。ベートーヴェンがいなきゃよかったのにとさえ思う(笑)。でも、彼が切り開いてくれて、音楽の時代を100年は早めてくれたおかげで、我々はコンサートが出来ているので感謝したい」と話して、番組は終わりました。

作曲家の人となりを深く知ることで、その音楽も深く知ることができますから、とても良いきっかけになりました。

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