今年はショパンの生誕200年のショパン・イヤーで、ラ・フォル・ジュルネのテーマもショパンでした。また、CDショップや本屋さんでも、ショパン関連のコーナーが設けられていて、大いに盛り上がっているようです。

ショパンは、クラシック音楽の中では欠かせない音楽家ですが、今年は他にも記念の年を迎えている作曲家がいるのです。誰でしょうか?

それは、ロベルト・シューマンです。

ショパンにすっかり隠れてしまっていますが、実は彼も生誕200年でショパンと同い年です。

ショパンはポーランド生まれ、シューマンはドイツ生まれなので国は違うのですが、彼らが活躍をしていた当時、お互いに面識もあり、実際に交流も深めていました。

ショパンがドイツのライプツィヒを訪れた時に、メンデルスゾーンを通してシューマンと知り合ったそうです。

参考:ライプツィヒのシューマンの家とメンデルスゾーンの家
趣味の音楽:ヨーロッパ音楽紀行・ライプツィヒ3
趣味の音楽:ヨーロッパ音楽紀行・ライプツィヒ2

ショパンは20歳くらいの頃に、フランスのパリへ渡ります。当時のショパンは、生まれ故郷であるポーランドではピアニストとして名声もあり活躍をしていましたが、現代の様にテレビやインターネットが無い時代では、その名声は限られ、パリではほとんど無名の音楽家だったのです。そして、そのショパンを世に広めたのが、シューマンだったのです。

シューマンはピアノの猛練習のため指を痛めてしまい、ピアニストになる夢を断念し、作曲家としての仕事をしながら、音楽雑誌で評論を書いていました。

ショパンの演奏を聴いたシューマンは、1834年、24歳の時にシューマン自身が立ち上げた「新音楽時報」という音楽雑誌の中で、「諸君、帽子を取りたまえ、天才が現れた」という有名なセリフと共にショパンを大絶賛しました。

このように、シューマンはショパンを高く評価していました。シューマンが同じ頃に作曲をし、シューマンの代表作でもあるピアノ曲「謝肉祭」OP-9 の中にも、第12番目の曲に「ショパン」という題名をつけているくらいです。

では、反対にショパンはシューマンの事を、どのように思っていたのでしょうか?

どうも、シューマンがショパンを思うほどは評価していなかったようです。

シューマンが「天才が現れた」とショパンを大絶賛した時、当のショパンは困惑したどころか、苦笑したそうで、それは彼の友人に宛てた手紙の中でもはっきりと書かれているそうです。

また、シューマンは「謝肉祭」と並んで大変有名な「クライスレリアーナ」をショパンに献呈し、ショパンは「バラード第2番」をシューマンに献呈しました。

この「バラード第2番」も有名で、とても魅力的な作品なのですが、どうもショパン自身はそれほどでもないように思っていたらしく、いろいろな方に作品を献呈して残った曲をシューマンに献呈したようなのです。

この辺りからも、ショパンとシューマン、それぞれの相手に対する思いの温度差を感じますね。でも、どちらの音楽家も、またどちらの作品も、今日ではそれぞれを代表する名曲なのですから、興味深いお話です。

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