(この記事は、2020年12月7日に配信しました第311号のメールマガジンに掲載されたものです)

今回の「たのしい音楽小話」は、ベートーヴェンの難聴と作品作りについてのお話です。

今年は、クラシック音楽の世界では、ベートーヴェン生誕250年のメモリアルイヤーです。本来なら、ベートーヴェンの話題で盛り上るはずですが、新型コロナウイルスの影響で、コンサートどころか外出自粛が続きました。しかし、ここへ来て Go To イベントの効果もあるのか、コンサートも少しずつ開催されるようになり、メモリアルイヤーにちなんだ話題も聞かれるようになってきました。

ベートーヴェンは、偉大な音楽家の一人です。あの怖そうな肖像画、ソソソ♭ミーという大変印象的なメロディーの「運命」、ピアノ曲「エリーゼのために」、難聴を乗り越えて作品を生み出した作曲家など、誰もが知っている事ばかりで、いかに世の中に広く知られているのかがわかります。

先日は、テレビで「偉人たちの健康診断 ベートーヴェン 第9誕生!難聴との闘い」という番組が放送されていました。生徒さんの中にも、ご覧になった方がおられました。

ベートーヴェンを難聴というキーワードから健康診断していく番組で、関根勤さん、はいだしょうこさん、カンニング竹山さん、ピアニストの清塚信也さんが出演していました。

最初に、名曲「エリーゼのために」について、演奏を交えながら清塚さんが解説されました。エリーゼは、本当はテレーゼという名前で、ベートーヴェンのピアノの弟子であり、年下の貴族の娘です。「エリーゼのために」は、彼女に捧げた恋文のような曲だったのに、テレーゼの死後、いつの間にか出版されてしまった事を話すと、ゲストの皆さんは、「ラブレターを後に誰かが勝手に出版しちゃったって事でしょ?」と、驚きの声を上げていました。

ベートーヴェンは、1770年にドイツの宮廷音楽家の家に生まれました。ベートーヴェンの生家があるドイツのボンでは、街のいたるところでベートーヴェンのグッズが売られ、信号機も青信号にベートーヴェンの顔がデザインされています。ベートーヴェンの生家は、現在ベートーヴェンハウスという博物館になっています。

ベートーヴェンは、宮廷音楽家の父から音楽の英才教育を受けました。7歳で演奏会を開くほどの腕前で、番組ではその様子を描いた絵が紹介されていました。貴族たちの前で、ピアノの両脇に燭台を乗せて、まだ小さいため床に足が届かず、椅子にちょこんと座りピアノを弾いている姿は、なんとも可愛らしいものです。

12歳の時には自ら曲を作り、13歳で宮廷オルガニストになりました。既に立派な音楽家ですが、いざ宮廷音楽家として仕事を始めますと、息が詰まるようなところだったようです。当時の宮廷音楽家は、命じられるがままに作曲して演奏するのが仕事で、身分も低く召使として扱われていました。

音楽は、宮廷生活を彩るためのもので、1回聴いたら終わりという使い捨てだったそうです。音楽も音楽家も使い捨てで、代りはいくらでもいるという伝統の中で苦しめられた一人が、ベートーヴェンの父ヨハンでした。声楽家として活躍していた宮廷を追われて、酒におぼれていった姿をベートーヴェンは身近に見ていました。

1789年、ベートーヴェンが18歳のときにフランス革命が起こります。富と権力を独占して優雅に暮らしていた貴族の陰で、苦しい生活をしてきた貧しい市民が立ち上がったのです。「全ての人は自由で平等であるべき。国、社会、富を貧しい人の手に取り戻す」というフランス革命の理念は、ベートーヴェンにも大きな影響を与えました。

親友に宛てた手紙には、「僕の芸術は、僕と同じ貧しい人々の運命の改善に捧げられなければならない」と記しています。貴族のための音楽から、市民のための音楽を作ることを決意し、21歳の時に音楽の都ウィーンへと向かいます。

24歳の時にウィーンの音楽出版社と結んだ契約書が残されていますが、楽譜を出版して収入を得るという当時ではとても斬新な方法を取りました。多数の出版社に楽譜を持っていき、例えば1社に半年だけ出版の権利を与え、その後は他の出版社に持っていき収入を得ることで、音楽家は自立できないという慣習を変えたのです。現在では、ごく一般的に行われている事ですが、遡ればベートーヴェンが元祖なのかもしれません。

演奏会の在り方にも、革命を起こします。当時の演奏会のポスターを見ますと、料金表が書かれていますが、最高で約5万円、一番安い価格で約3,500円と、座席によって8段階もの価格差を付けて販売していました。極端に安い席もたくさん用意されていたそうで、お金を払えば身分に関係なく演奏が聴けるようにしたのです。これも、現在では当たり前ですが、当時は貴族のための音楽ですから、演奏会は宮廷で行われチケットも不要でした。ベートーヴェンは、自分の音楽を広く一般市民に聴いてもらいたいと思い、音楽はみんなで聴けるものだという流れを作ったのです。

この革命の精神は、音楽の創作にも表れます。例えばピアノソナタ「悲愴」という作品は、ベートーヴェン自身が付けた曲名ですが、フランス語の本来の意味では「激情」になるのだそうです。ベートーヴェンの3大ピアノソナタとして知られている作品で、弾いたことがある方もいらっしゃるかと思いますが、私も思い返すと、悲愴という言葉のイメージとは裏腹に、とても激しい感じの曲で違和感を感じていた覚えがあります。当時の一般的なソナタは、娯楽的な作品が多かったわけですが、この作品はベートーヴェンの激しい感情が色濃く表現された新しい音楽と言えます。宮廷で捕らわれの身となっていた音楽を、自由にしたいと思っていたのでしょう。

しかし、この頃から難聴に苦しみ始めます。友人への手紙に、「耳が一日中、ぶんぶんざわざわ言っている」「話し声は聞こえるのに、意味がさっぱり分からない」と書いています。難聴は、聞こえづらいとか、全く聞こえない症状だと思っていましたが、このような症状もある事を知り驚きました。

「僕は、もう何度も創造主を呪った。僕の体で最も大切な部分、聴覚がひどく衰えてしまったのだ。僕の耳のことは絶対に秘密にして、どんな人にも話さないでほしい」と、他の友人にも手紙を書いています。音楽に関わっている身としては、この心情は大変よくわかります。難聴を隠すために、一切の人付き合いを隠して、ハイリゲンシュタットという郊外の町に引きこもってしまいます。

ベートーヴェンは、なぜ難聴になってしまったのでしょうか。

近年、ウィーン大学病理学解剖学博物館の書庫に、ベートーヴェンの解剖結果の記録が残されていることが分かりました。ベートーヴェンが亡くなった翌日に、ベートーヴェンの自宅で解剖が行われたようです。

これまで難聴は、耳硬化症という耳の中の耳小骨が正しく動かなくなることで起きる病気と考えられていました。しかし、ベートーヴェンの解剖結果の記録には、耳小骨について書かれていません。

現在の難聴医療の専門家の意見では、高い音が聞こえづらくなると、子音が聴き取れなくなるため、例えば「あかさたな」と言っていても、全てが「あ」と聞こえてしまうのだそうです。音は聞こえるが言葉がわかりにくいというベートーヴェンの症状は、鼓膜のもっと内側にある内耳の病気だったと考えられ、現代医学では「若年発症型両側性感音難聴」という病気と疑われます。

40歳未満で発症する難聴で、日本では厚生労働省が難病指定していて、患者数は国内で約4,000人いると言われています。内耳が壊れる遺伝子を、先天的に持っていることが原因と明らかになっているそうです。現在では、人工内耳が開発されていますが、それ以前は有効な治療法がありませんでした。

次回に続きます。

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