(この記事は、2024年4月29日に配信しました第396号のメールマガジンに掲載されたものです)

今回は、「歴代作曲家ギャラ比べ」という本のお話です。

数年前から大変気になっていた本ですが、ようやく手に取って読んでみました。

そもそも、クラシックの音楽家の話というと作曲家の作品紹介や生涯と功績、人物像などをつづったものがほとんどだと思います。しかし、今でも「芸術で飯は食っていけない」と言われるように、音楽や美術などの芸術は職業も限られますし、その収入で生活をしていくとなると、かなり難しい世界というイメージがあると思います。例えば、ピアノが好きで、日本国内の音大ピアノ科に入って勉強し卒業したところで、ピアニストとして収入を得て生活をするという事は不可能に近く、海外の有名な音楽院などで勉強をして、有名な国際ピアノコンクールで優勝もしくは3位くらいまでの入賞をして、実力と知名度を高めて初めて徐々にピアニストとして生活ができるくらいだと思います。そこには、本人の努力だけではなく、元々持っているセンスというのか、才能というのか、幼少期からの突出した何か光るものを持っていないと、おそらくピアニストとしてやっていく事は難しいので、物凄く努力したらピアニストとしてやっていけるというものでもないのかもしれません。

今回読んだ「歴代作曲家ギャラ比べ」は、バッハからストラヴィンスキーまで41人の作曲家が、具体的にいくら稼いでいたのか、またどうやって稼いでいたのかを、具体的に示している本です。作曲家なので、曲を書いていたことは想像に難くないと思いますが、いろいろな手段を使ってお金を稼いで生活をしていたようです。いくら稼いでいたのか?という視点は、これまでの作曲家にまつわる本に、多少なりとも書かれてはいるのですが、当時の通貨で記載されていることがほとんどなので、少額なのか大金なのかもよくわかりません。しかし、この本では、現代の日本円(2019年基準)に置き換えて算出した金額が書かれているので、わかりやすいという点で大変興味が湧きました。それぞれの作曲家の時代で、活躍をしていた国も通貨も当然異なりますが、いくつかの時代に分けて、いろいろな通貨同士の価値も考慮しながら、それぞれ適切な換算率を設定し現代の日本円に算出しているそうです。

例えば、バロック期の作曲家というと、バッハとヘンデルが挙げられますが、ともにドイツ出身でありながら生涯ドイツで活躍をしていたバッハと、ロンドンに移住して後に帰化したヘンデルを比べますと、活躍の場が異なるだけでなく収入面でもかなり異なっていました。

バッハは、教会や宮廷に雇われて、数年くらいの間隔で転職を繰り返しながらいわば公務員のような生活をしていました。18歳で小さな町の教会オルガニストに就任して年俸55万円を稼ぎ、ワイマールで宮廷のオルガニストになって初任給の年俸75万円、ワイマールの楽師長になって年俸125万円、ケーテン宮廷楽長になって年俸300万円、ライプツィヒ聖トーマス教会のカントールになって年収525万円と右肩上がりに収入が増えていきました。バッハの給料は高額ではなく、子だくさんでしたので、むしろなかなか大変な生活だったと思いますが、副収入を得て生活を成り立たせていたようです。葬儀一回の演奏で156円~7500円くらい、42歳の時の宮廷での新年お祝いコンサートで18万円、47歳の時のオルガン試奏で120万円、62歳の時のチェンバロレンタル費で毎月1万円などだそうです。なかなかリアルな生活ぶりが垣間見える気がしますね。

一方で、同い年でもあるヘンデルは、20代でオペラの本場であるイタリアを巡り、様々な影響を受けて一時ドイツに帰国するも、ロンドンに移住して帰化しました。今でいう国際派といったところでしょうか。25歳でハノーファー(ドイツ)の宮廷楽長に就任して年俸750万円で、バッハのどの年齢の稼ぎよりも高い年俸を貰っていたことになります。その後ロンドンに移住して、活動を始めた27歳頃では報酬595万円ほど、35歳~45歳頃は報酬2560万円、45歳頃は報酬3200万円、晩年は報酬6400万円くらいだったそうです。ヘンデルがこんなに高額の報酬を得ていたとはびっくりしますね。しかも、他に株式や年金などに投資をしていたそうで、そちらでも成功し配当も得ていたそうです。

ヘンデルはオペラとオラトリオというジャンルの音楽を作曲していて、上演するには莫大な費用が掛かるものなので、ヒットすると大儲けですが、はずれると大変な赤字になる大博打でした。しかし、優れた作品を次々に生み出し、富と名声を得ていたそうです。当時のオペラは新作が基本で、人気が出ないとすぐに打ち切りになるのですが、たとえ不評でも人気のメロディーなどがあれば、その曲だけ演奏会で演奏されたり出版されたりして、収入や知名度も上がったそうです。

ヘンデルは、晩年にはオペラが売れなくなったそうですが、オラトリオにシフトしてそれがまた大ヒットしたそうです。時代の求めるものを読む事に長けていて、上手に作品作りに取り入れていたような印象ですね。一方で、当時のウケるものばかりを作っていたような気もしてしまうのですが、ベートーヴェンが最も尊敬する作曲家として、何回もヘンデルの名前を挙げていた事や、ヘンデルの楽譜をプレゼントされて大喜びしたという話を聞きますと、儲けやウケる曲ばかりを書いていた訳ではなく、やはり音楽的に素晴らしい作品を生み出していたようです。

そして、ヘンデルの遺産は現代の日本円で7億円くらいあったそうです。遺言書を残しており、結婚していなかったため、姪など30人近くの親族、親子2代でヘンデルを支えたスミス、音楽協会などに分配したそうです。

この本では、他にもモーツァルトとサリエリ(モーツァルトの最大のライバルとも言われていました)、ショパンとリスト(ロマン派の2大天才ピアニスト)、ドビュッシーとラヴェル(フランスの印象派を代表する音楽家)なども、比較しながら紹介されています。そして、作曲家の作品がQRコードで添付されていますので、スマホやタブレットで読み込んで音楽を聴くこともでき、作曲家の名声が高くなった曲や、オペラはヒットしなかったけれど人気のあった曲などを知ることもできますから便利です。

いつの世も、稼いで生活をしていく事は大変な事ですが、作曲家も宮廷に仕えたり、スポンサーを探したり、作品を売り込んだり、自作曲のコンサートをしたり、演奏や指揮をしたりと、作曲すること以外の手段もいろいろと駆使しながら収入を得ていたのですね。

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(この記事は、2024年3月18日に配信しました第393号のメールマガジンに掲載されたものです)

今回は、「情熱大陸」というテレビ番組のお話です。

毎週日曜日の夜に放送される「情熱大陸」は、様々な分野で活躍している人々を、密着取材を通して紹介するテレビ番組です。ヴァイオリニストの葉加瀬太郎さん作曲のテーマ曲が大変有名で、今では小学校の合奏にも使用されるほどの人気なのだそうです。

音楽番組ではないのですが、これまで何人もの演奏家も取り上げていて、大変人気のあるピアニストのフジコ・ヘミングさんも、かつてこの番組に登場していました。リアルタイムで見た覚えがあるのですが、波乱万丈の人生を歩まれ、だからこそなのかもしれませんが、大変奥深く印象強い演奏をされていました。フジコ・ヘミングさんが番組内で演奏していたリスト作曲の「ラ・カンパネラ」も、この番組がきっかけで、今では彼女の代名詞とも言える作品になっています。

また、反田恭平さんも、かつてこの番組に登場され、以前このコーナーでも取り上げた覚えがあります。その後のご活躍は言うまでもなく、ショパン国際ピアノコンクールで、歴代の日本人最高位である第2位を受賞され、瞬く間に世界の一流ピアニストの仲間入りをされました。ピアニストとして活躍するとともに、ジャパンナショナルオーケストラを結成して様々なコンサートを開催し、プロデュースなどもされています。結成して3年目を迎え、チケットは軒並み完売という大変な人気で、大変珍しい株式会社の形態をとっているオーケストラなのですが、既に黒字化しているようで経営手腕も確かなようです。

前回の放送では、ピアニストの亀井聖矢さんが登場しました。満を持しての登場と言うセリフがピッタリな気がします。桐朋学園大学に飛び級入学して、その年に日本音楽コンクール、ピティナ・ピアノコンペティションという日本の若手音楽家たちの登竜門として大変有名な2つのコンクールの両方に優勝されました。演奏家を多く輩出しているトップクラスの音楽大学である桐朋学園大学に史上初の飛び級入学しているだけでも驚きですが、さすがに入学して1年も経たないうちに同時制覇するとは、大学側も想像していなかったのではと思います。この圧倒的な実力は、数々の国際コンクールでも発揮されていますが、2022年にロン=ティボー国際コンクールで優勝されて、知名度を不動のものにされました。

番組は、亀井さんが2年前に語ったという「ピアニストのゴールは、コンクールじゃない」という言葉から始まりました。ストラヴィンスキー作曲の「ペトルーシュカからの3楽章」という難曲を弾く亀井さんの姿は、番組で流れた「憑りつかれたかのように弾きこなす」という言葉そのもので、切れ味鋭い演奏と共に、惹きつけられる魅力を醸し出していました。もちろん番組の一場面なので、演奏もごく一部のみしか流れませんでしたが、おそらく誰もが、その凄さを感じたのではと思います。演奏直後に、会場のあちこちから歓声が沸き、映像を見る限りでは観客全員がスタンディングオベーションという状況になっていました。

これほどの輝かしい活躍をされていますが、ご本人は「いつまでも超絶技巧ばかり弾いていないで、ちゃんと自分の内面とかを含めてピアニストとしての幅をもっともっと深めていきたい」と、にこやかな表情でしたが、冷静な自己分析をされていました。昨年あたりから、ショパンの作品の練習をされているそうですが、「僕にとって、ショパンは凄く難しい作曲家で、全力で気持ちよく弾くと、繊細なショパンのキャパシティをオーバーしてしまうので、今はまだショパンが見つかっていない状態で、自分の中の良いショパン像に出会えるところまで成長できるように頑張ります」ともコメントをされていました。番組では、おそらくショパンと同時期のピアノフォルテでショパンの作品をを演奏している亀井さんが映っていました。素晴らしい演奏でしたが、ご本人はもっと高みを目指しているようです。

昨年、ドイツに移り住んで、200年以上の歴史があるカールスルーエ音楽大学に留学して、日本人ピアニストで教授の児玉桃さんに師事しているそうです。番組では、なかなか普段見ることのできない、ピアニストのレッスン風景の映像も見ることができました。

亀井さんの演奏を聴いた児玉さんは、「ショパンは、センチメンタルに弾こうとしてテンポを揺らしがちだけど、一定のテンポを保って弾いている所は良いと思います」と感想を話しつつ、「顕微鏡で楽譜を見るように、細かく見ていきます」という発言もしていました。児玉さんが、「長いフレーズなので、先に進みたいという気持ちはわかるけれど、進まないで、ショパンの祖国であるポーランドの事を思い(当時はロシアの支配下で、ショパンはフランスに亡命していた)、痛み、凄く寂しい気持ちを思いながら弾く」とアドバイスをしますと、亀井さんは頷きながら、時には児玉さんの顔を見つつ、iPadの楽譜に熱心に書き込みをしていました。「すごくきれいな音なんですけれど、もう少し深くまで行けると思うんですね」「ここまでは深いんですけれど、あとからその魂みたいなものが昇っていくように」という旨のアドバイスもされていて、ピアニストがレッスンを受けると、このような風景になるのだなあと大変興味深く見ました。

番組では、ピアノ以外でのプライベート映像も流れていました。友人の留学仲間とルームシェアをして住んでいる家で、携帯でレシピを見ながら、先程スーパーで買ってきた食材を使い、料理を始める姿も映っていました。ルームシェアしている友人が番組スタッフのインタビューを受けている最中に、亀井さんが若干危なっかしい手つきで食材を切りつつ、「今日、ゴミ出しありがとね」と話しかけて、友人が笑って返事をしていたり、亀井さんが、「僕は、一緒に住んでいてストレスは無いんですけど、どう?」と笑いながらルームシェアしている友人に返事を求めると、友人がニコニコしながら、「(ストレスは)無い、無い!」と答えて2人で笑いあっている姿は、普段の2人の生活ぶりが垣間見えたようで、ほほえましい感じがしました。

「一緒に過ごしていて面白いですね、楽しいし、話も面白いよね」と友人がインタビューに答えると、それを聞いた亀井さんが、「おお~、いいね。もっともっと(言って)」と笑いながら話していたり、パスタ料理を作りながら、「頼む、美味しくなってくれ」と話しながら「最後は、混ぜるで合っているよね?頼む、いい匂いではある」と、コメントも面白くて、亀井さんのユニークなキャラクターもよく伝わってきました。

リトアニアの音楽祭に招かれた亀井さんのリハーサル風景も流れていました。亀井さんがピアノを弾きつつ、不意に演奏を止めて、iPadの楽譜に書き込みをしていましたが、赤や青のペンでの書き込みがたくさんありました。左手の伴奏形の反復練習などもされつつ、また書き込みをしたりで、この日は8時間みっちりと練習をしたそうです。リトアニアでは初演奏だったそうですが、ここでも拍手喝采と次々とスタンディングオベーションも起こり、大好評の様子が映っていました。「完璧だったわ。とても個性的」「演奏の内容が、とても深くて日本の精神が感じられたよ」と聴衆のコメントも紹介されていました。

ワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団との日本公演の様子も流れていました。リハーサルが短時間しかなく、オーケストラとタイミングが合わず苦悩する亀井さんの姿もありました。「本番のつもりで弾いたけれど、思うように提示しきれなかった。難しい。どういうプロセスが正解なのか、分からない。どうしたらいいんだろうなあ…」と、うつむいて無言になってしまっていて、相当悩んでしまっている様子でした。本番前に、この状態ですとかなり深刻だと思うので、本番の演奏はどうなってしまうのか、番組を見ている私も祈るような気持ちでした。本番の演奏が始まり、オーケストラの前奏の後に、亀井さんのピアノソロ部分が始まりましたが、先程の苦悩に満ちた姿とは打って変って確信を持った演奏をされていて、非常に驚きました。亀井さんの、憑りつかれたかのような表情まで見受けられ、「ホールで聴きたかったなあ」と後悔すら感じるような素晴らしい演奏でした。

演奏後、舞台袖に戻ってくると、水を飲み開口一番「楽しかった!」と晴れやかな顔をされていたところが、とても印象的でした。指揮者も、亀井さんと抱き合って演奏を称えていましたし、「オーケストラをよく聴いて、しっかり反応していたよ。素晴らしかった。このまま進みなさい」と声を掛けていました。亀井さんには、大変嬉しい言葉だったのではないでしょうか。

どこまで極めていくのか、目が離せない若手ピアニストの亀井さんを、これからも大いに注目していきたいものです。

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小澤征爾さん死去


2024年3月18日

メンデルスゾーン : 劇音楽「真夏の夜の夢」全曲 Op.61
(この記事は、2024年3月4日に配信しました第392号のメールマガジンに掲載されたものです)

今回は、小澤征爾さんのお話です。

指揮者の小澤征爾さんが、2月6日心不全のため88歳で死去されました。クラシック音楽ファンだけではなく、普段クラシック音楽にあまり接点がない方も、小澤さんの死去はニュースで大きく取り上げられたので、ご存知の方も多いと思います。このニュースは、日本だけでなく世界中で報道されたようで、名だたる音楽家の方々が相次いでメッセージを発表していました。その報道を見ますと、改めて小澤征爾さんの偉大さを感じた次第です。

齋藤秀雄に指揮を学び、桐朋学園短期大学を卒業後、24歳でブザンソン国際指揮者コンクールに優勝、カラヤンやバーンスタインの弟子となり、ボストン交響楽団の音楽監督を29年務めつつ、トロント交響楽団やサンフランシスコ交響楽団の音楽監督、タングルウッド音楽祭の音楽監督、師匠である齋藤秀雄の名を冠したサイトウ・キネン・オーケストラやサイトウ・キネン・フェスティバル松本(現在は、セイジ・オザワ松本フェスティバル)の立ち上げ、新日本フィルハーモニー交響楽団の創立もしています。

ベルリンフィルハーモニー管弦楽団の創立100周年記念公演の指揮や、毎年1月に開催されているウィーンフィルハーモニー管弦楽団のニューイヤーコンサートに日本人初として指揮を振ったり、東洋人初としてウィーン国立歌劇場音楽監督にも就任しました。クラシック音楽は、西洋で生まれて花開いたものですが、小澤さんがブザンソン国際指揮者コンクールに優勝した当時は、東洋人が西洋の音楽を理解し、表現できるわけがないという偏見がまだまだ多くあった時代でした。語りつくせない程の多くのご苦労があったのではと思いますが、それを乗り越えて、こうして世界中の音楽シーンの第一線で活躍し続けたという事は、本当に凄いことだと思います。

ちなみに、新日本フィルハーモニー交響楽団は、音楽家の山本直純さんと共に創立しています。山本直純さんは、小澤さんの3歳年上のようですが、齋藤秀雄の指揮教室で出会った旧知の仲だそうです。まだ若かりし当時、山本さんは、小澤さんに「お前は、世界の頂点を目指せ。俺は、日本で底辺を広げる」と言ったという有名なエピソードがあります。その後、小澤さんは、その通りに世界中で大活躍をし、「世界のオザワ」と呼ばれるまでになりました。ちなみに、山本さんは、10年間程テレビ放送されていた音楽番組「オーケストラがやってきた」の司会から音楽監督を一手に引き受けたり、作曲活動にも力を入れ、映画「男はつらいよ」のテーマ曲、童謡「1年生になったら」「こぶたぬきつねこ」、テレビ番組「8時だよ!全員集合」のテーマ曲などなど、次々と代表作を生み出し、日本国内で音楽を大衆に広めました。おそらく、誰もが聴いたり歌ったことのある音楽だと思います。うろ覚えではありますが、私も小さい頃に「オーケストラがやってきた」の公開録画に行き、黒縁メガネで髭のある陽気なおじさんが、ニコニコしながら話していたり、指揮をしていたことを覚えています。サインをもらったり、赤ちゃんだった妹を抱っこしてくれたそうです。小澤さんに話した通り、日本の音楽界の底辺を広げる活躍をしたのですね。

小澤さんの死去のニュースが世界中を駆け巡り、いろいろなところで追悼の番組や特集が組まれています。先日のニューズウィーク日本版では、「世界が愛した小澤征爾」と大きくタイトルが書かれ、「巨匠・小澤征爾、88年の軌跡」という特集が掲載されていました。小澤さんの師匠であったカラヤンやバーンスタイン、チェロの巨匠ロストポーヴィチとの写真や、小澤さんが指揮をしている写真、山本直純さんとの写真などがたくさん掲載され、その他にも、小澤さんのアルバムの名盤紹介や小澤語録などもありました。

その中で、指揮者の佐渡裕さんのインタビュー記事が目に留まりました。佐渡裕さんは、小澤さんの弟子であり、小澤さんと同じくバーンスタインの弟子でもあります。小澤さんの亡き後、次世代を担う世界的指揮者と言っても良いかと思います。インタビュー記事には、小澤さん(記事では小澤先生と書かれています)の死後初めての演奏が、小澤さんゆかりのホールで、偶然にも葬送の曲だったことや、小澤さんが指揮をした演奏を初めて聴いた時の事、初めて小澤さんの前で指揮をして、振り間違えて落ち込んでいた時に声を掛けられて号泣したこと、ママさんコーラスや高校の吹奏楽の指揮などを掛け持ちしていて、そこそこ収入があると話した際に、「今、親のすねをかじってでも勉強しなきゃ駄目でしょ」と小澤さんに一喝され、全てを辞めて、小澤さんのアドバイス通りに留学した事など、大変興味深いエピソードが満載でした。

かつて、小澤さんがNHK交響楽団のメンバーからボイコットされた時を振り返った小澤さん自身の発言や、佐渡さんがコンクールで優勝してからのアドバイスなどは、弟子から見た小澤さんの人柄が垣間見えるようでした。佐渡さんは、昨年から、小澤さんと山本さんが創立した新日本フィルハーモニー交響楽団の音楽監督に就任していて、これも運命だと思ったそうです。師匠である小澤さんへの思いに溢れた記事でした。

小澤さんの活躍は、普段クラシック音楽にあまり接点がない方でも、目にしているかも知れません。1998年の長野オリンピックの開会式で、ベートーヴェンの第9交響曲、通称第9を小澤さんが指揮したわけですが、この時の有名なエピソードがあります。覚えている方もいらっしゃるかもしれませんが、開会式では、航空自衛隊のブルーインパルスが飛行しました。時速600キロで飛ぶブルーインパルスが、第9の演奏後という絶妙なタイミングで聖火台の上から飛ぶことになっていて、練習自体は順調だったそうです。しかし、全体リハーサルになると、開会式の各演目が数分ずつ時間がずれてしまい、ブルーインパルスの到着時刻を正確に決められない問題が発覚しました。この大問題をどうやって解決したのかと言うと、小澤さんの演奏の正確性でした。何回演奏しても、演奏時間が秒単位でいつもピッタリ正確なのです。オリンピック当日は、リハーサルより10分も遅れたそうですが、小澤さんの全くぶれない正確な演奏時間のおかげで、会場到着時刻が予測でき、ブルーインパルスがピッタリのタイミングで飛行できたそうです。凄いの一言ですね。

小澤さんのご冥福をお祈りしたいと思います。

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